後悔なんて一切これっぽっち無い、と聞いた。私は色々あったけど今は本当に幸せ、と聞いた。もう**が逝ってしまったら私は生きていても終わったようなもの、と聞いた。口角を上げて表情筋をあげること楽しむことで幸せは引き寄せられる、と聞いた。失敗はあったけれど後悔はないって。
私からするとどれも羨ましい。(隣の芝生..というものか、反対に他から見ればその対象になる場合もあるだろうが)私からみるとそれは傍から一般にいう失敗という部類かもしれないが、そこには自身の意思を通した上でのことだったり家族の励ましがあったり。だからそれは失敗ではなくたまたまうまくいかなかった事、成功と失敗ということばがある上でのことばに過ぎない。どれだけ傷がついていたにせよ自身で転んだ事。失敗か..
本当の失敗とは何も(実際には何もしていないとは言い切れないとは思うが)しなかったできなかった事に後悔を重ねているのが本当の失敗だと感じている。これは経験からはっきり見えていること。傍という他人がどういおうが(傍が応援してくれることもある)、更に言えば親が言う(だけですまない場合も)以上に家庭で何が起ころうが自身の思いは貫くのが後悔のない生き方につながっていく。身近な者たちのことを気遣って考えすぎては埋もれていく、といって深く埋もれているだけで結局は何かのタイミングで姿を現す。
ことばで悔いなき人生を、と目にし幾度となく聞いたりするが難しいことはなく只素直に自身のやりたい事に夢と信念を持って突き進むこと、その線状に困難が待ち受けていたとしてもそれは失敗ではない。間違った力で防いでくる者ふりをしてくる者..に惑わされずに自身の核らしきもの直観を大事にするのがいい、と思っている。
ここまでの自身の大まかにいえば失敗のサンプルと劣等感の塊を見つめて打ち砕いて世間でいう失敗を生みだすかもしれない昨今。
千手堂の愛染明王の目を見たとき、こうしてずっと後悔を背負った心を一瞬に見透かされた気がして表情からしても怖かったが、なぜかその見開いた目(初めて見る眼力)に目が離せなくて暫く時が止まるのを感じた。そしてやはりどうであれサンプルとしてここに書いておこうと思った。
あの「眼」を留めておきたい。