空をみて

通常は家から3キロ周辺内で生活しているがこの数か月度々都心(駅)に繰り出して、その都度改めて「都会だな」と感じている。

東京駅は旅行者やビジネスマンに限らず移動を要した人達の潮目みたいな所(そういえばお弁当も潮目)、いつだったかキャリングケースの重さと人の多さで荷を思うように操れず案の定人にぶつかってしまった。渋谷駅、私より7歳くらい若いお母さんが「久々に来ましたけれど若い人が多いですね」と漏らし、更に私などは駅に降り立ったこと自体が4年ぶり、現在の若者ファッションに時折過ぎていくアドトラックに、通り沿いの目の引く照明に照らされた店内・・坂を上がりながら日頃見ない東京が飛び込んできていた。最近寄った高田馬場は、興味のひく飲食店やしっかりとした眼差しを持った個性的な姿の学生さんらしき人達やはり人が沢山だった。

大阪駅に梅田駅、ここも混雑する所。一昨年だったか阪神阪急デパートからJR駅に向けての短い横断歩道の信号機の秒カウントが無くなっていたのが記憶に新しい(多分もっと前からなかったかもしれない)。あそこは色が変わる前のフライング者の象徴でクラクションの音も同時に聞いた所だ。何となくだがどこの信号機もエレベーターの押しボタンの連打もフライング者が多めの印象、そして気軽に一声発するものをもっている(勝手な印象)大阪人を思う。

最近訪れた神戸は海(六甲山もある)が近く関西の横浜のようなおしゃれな街並みで、恐らく安い美味しい店から高そうなレストランまであってそして港ならではの異文化の街、人ももう一つの瞳をもっていそうな印象関西内では特に活けたところだと感じている。 そして奈良は寺院が点在してしっとりと人はおっとり、空間のある街、盆地の底冷えを静かにやり過ごし大仏様と鹿の優しい目に守られた街。

ざっとだが個人的な印象だ。

きっと都心の張り巡らされた電車、ほか地域の電車に乗るとその地域の空気を感じることができる。

若い人を見て、身近では後期高齢者をみる中年層の自分は大げさか抽象的か人生の潮目にいる気がしている昨今。

少し観点が違うが若い人の間でこの2年程(?)昭和レトロが流行っているという。少しノスタルジックな喫茶店に深い緑色のソーダに頼りなげなウエハースのささったバニラアイス、炊飯器に花柄のポットに黒電話、店構えやその看板・・ 何がどうとはいえないが(うんそれ良かったよ)と共有された気がして嬉しくなる。そういえばお金を稼ぐ喜びを感じた、今はやや高級(値上がりしたせいかも・・)パン屋でのバイト時代のレジは、種類を打って値・預かったお金を打ち、”チン”とお金の引き出しが出てくるもの。店にもよるが今ではトレーを置くだけスキャンでOK、スーパーのレジも商品コードを都度読み込ませてカートに入れ、最後に支払う・・AIしかり・・・文明は流れている。

黒電話はひそかに今も持ってみたい物だったりする。(状況によってはもう家電話自体不要かも)1~順に0が最後で回して戻るまでに数秒待つ「間」がある。パパパっと効率的に事を済ますことができる現在とは対照的。でも、だから、惹かれる人がいる。

色の対照的な色や対象音、陰陽、若者に何れは成る老人、田舎と都会は遠くて近いもの、ことばでは簡単だけれど相性の良いもの、どんどん親しみを感じて体験できたらなと思う。

付け加えると具体的には両親を見て思ったこと、テレビでも観たことはあったのだが、歩けなくなる手前でもバーチャルを体験したら懐かしさに足が動くのでは笑顔が出るのでは・・衰えるものと新しいもの・・

起き上がりコマのいつ起き上がるかを待つ、ちょっとしたわくわくの「間」が伝えてくる。 良い循環と創造を思う。

(自身にも)

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