空をみて

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毎度ながら日が暮れかかった頃にふらりと散歩に出る。ある本に散歩をしているじかんというのは自分が死んでいる時間だという表現があってそれが頭に残って、だとしたら私はほぼ毎日死んだ時間があるなと感じていた。表現を変えるとするべき事から解放されたじかんということ..

と次第に雨脚が強くなり気がつくといつもより遅めの時間人気も殆どなく、雨音・電灯・バスケットコート・たまのランナーと自転車、そして微生物の生を感じるいつもより強い土の香り、雫を落とす樹々の葉を鮮明にみた。何となくだが「となりのトトロ」のさつきとトトロが傘をさしてバス停でバスの着くのを待っているシーンが浮かんでくる。

夕焼けチャイムは午後5:30に鳴る。一つの目安の時間で日中はチャイムの音や時計をみて調理準備時間の調整が入る。あの時計の定期的な秒針を見たり短い針と長い針については幼稚園~小学校低学年辺りで習ったか.. 今は音が鳴らないけれどカチっと刻む針と共に「あぁ12時になるお昼、あぁ6時になった、帰ることができる。」など時計を何度みていることだろう。と、夢中になっているときは見ていないのだが。

ふと、大昔みたいに時計がない時を過ごすことをしてみたらどんな事になるのだろう(社会はそれで成り立っているのでそれ以外の時間で試したとしたら)と過ぎる。ある子供の地点から時間管理されて生活しているから自身を含めてどんな感覚で過ごすのか見てみたい気がする。一日24時間となっているがこれが30時間だったり反対に12時間だったら..

行きのぽつぽつの雨粒が空高くから重力をもって伸びた雨に変わった。その長細い雨と雨の間を見て今は7時頃だろうか..と静まり返った公園を後にする。スニーカーはぐしょぐしょ体も少し冷えていたが心はシャワーを浴びたよう爽快な一時だった。

そして今も時計を見ている。

~やさしさに包まれて~

行くと迎え入れてくれる空間 葉っぱもあっちこっちに付いたり彩づいたり

でも時々怒って枝ごと落ちる それもいい 変化はしているけど変わらない 

土はやさしい緩和剤 

音楽はもたれさせてくれて ときに誘ってくれる

としてると 何だか少し似ているなって

だから止まらない 

ありがとう

 

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