もうこの日は日傘が必要なくらい眩しく暑くといえ清々しくもり、外ではマスクも要らないなぁと少しの間いつもより多くの空気を吸い込みながら、今回はアンリ・マティスの絵が待つ東京都美術館へ向かった。平日とはいえ花壇の周りに座る人や他の施設へ向かう人たち、散歩するひとに学生達と思い思いに進む人を見て上野の界隈は解放感に浸れる場所となっている。
やはり巨匠の絵にも沢山の来場者がいたが時間による入場制限をしている為館内では落ち着いて向き合うことができた。昔教科書で観た(恐らく過去に京都美術館でも)あの鮮やかな赤は、離れていてもその前に作品が連なっていても自然とその絵に目がいくほどの色であり構図の魅力とエネルギーを放っていた。「金魚鉢のある室内」という作品はアトリエからセーヌ川が臨める部屋の一画を捉えたもの、こちらは反対に青の世界、静物とで落ち着いた空気感の中水槽という限られた水中で音を立てずゆらりと泳いでいるのだろう・・と思わせるいつまでも見ていられるような絵だった。
と、多くある中珍しく点描画が掛けられていた。そして急に少しだけタイムスリップしてしまう。それは水彩画の授業だった。少し多めの水で作った色を筆に含ませひいたラインの中、または外に一つ一つ点をおいていく。そしてテイッュで抑えて定着させ、ひたすらそれを繰り返す。次の授業もその続きを同じように進めていく。
それぞれが少しずつ作りだすしんと静まり返った時間、内容以外は殆ど話さない先生が見回り良いと思えば生徒の頭上をやさしくポンと合図する。(現在なら何か言われるのかも..)互いに何も語らず良いのだなと互いに少しの嬉しさを感じる一時だったと思う。題材は宮沢賢治の作品を聞いて自分でどの場面を描くかを決め線を引きその後は「点」の連続。続けていると色が薄くなったり変化をつけたくなったり、あぁまだ終わらないと気が遠くなったりしていた。
「点」について思う。楽譜にある音符が点だとしたらやはりそれが連なってメロディーになりひとつの作品となっていく。人もひとつの点だとしたら社会というキャンバスの中で人と繋がって何らかの絵となっている。そしてある地点から知らない街に行くとするその二つの点が結ばれて線になり又点が増えて自身の知ったエリアができ自身の彩ができていく、とイメージする。
とりとめなく書いてしまったが、マティスの力強いラインと彩を見て点描画を思い、画家たちの葛藤をどの展覧会でも絵と解説で感じ、そして貫き通す鋭さを感じずにはいられない絵画鑑賞、偉大な画家それも海外の絵がここで観られるのがとても有難かった。
*写真の撮れるフロアが決められていました。