空をみて

風が菖蒲の葉を揺らし吹き始めるのに合わせて蛙たちが次々に鳴き始め、時折強風になり又収まり声も収まり、それがずっと繰り返されていて。あまりにも沢山の声が聞こえてくるので姿を探しつつも一向に蛙の姿は見当たらなく、暫くギロギロ..という声を聞いていた。そうした風と声と時々人の声を聞いているうちに懐かしい人の記憶が甦ってきた。

今は亡き伯父さんは宮大工が建ててくれたという渡り廊下のある木材を多く使った広い(今思えばとても貴重な)家に住んでいた。そこの庭の池には体全体を響かせて鳴く大きな蛙がいて、「ここにいるのは食べられる奴だ。」と蛙を取るふりをして、ぎょっとしている私を見ながらハハハと笑って下駄の音を響かせてリンリンと言っていた部屋(その和室は夏になると良い風鈴の音が心地よくゆれていた)に戻って行く光景が鮮明に・・

そこを訪れた時にちいさな儀式のような事を見て頂いていたものがある。お茶だ。

リンリンの部屋のやや端の方に火鉢があって火をもう少し起こすのにかすかに灰が舞い、その上には小さな鉄瓶?があり湯の沸くのを待った。暫くするとじゅじゅっという湯が沸きかける音の後に湯気が出てきて、その間は数人の大人の会話(時々参加する)はあるものの神経はお茶を入れることに向いていたのかとても静かな間として感じられた。並べられた茶器には湯が注がれて待ち、それをお茶っ葉の入った急須に入れる、そして待つ。子供だった頃からその時間がとても長く感じられどのように行動が移っていくのか、今日のお茶はおっちゃん茶器のどの辺りまで注ぐのだろう(お茶の葉によって量が違ったから)と、興味をもって待った。

そして「今日のは玉露のええやつや。」とほんと飲み終わりかと思う位の量(大匙2杯あったか..)を注いでくれるのを、最初の頃は「?!」と思いながら待つ人の顔を見て互いににんまりしていた・・その味はという前に口に入るとトロンと迄はいかないが今表現するとまろやかさがあって日常のとの違いに又「?!」となり、ほんの数秒後に苦みを感じる。うーんこれもお茶なのかとお茶から教えられているような気持ちになり、出された甘いみむろと書かれた最中を頂く。苦みと甘みそのものを味わっていた。

これが訪れた始まりの儀式。古美術商をしていた叔父はそこから「これは江戸時代の**、中国の**」と袱紗や風呂敷やらに大事に包まれた桐箱を出してきては説明が始まって最後にはお酒が入り、始まりの儀式とは一転食べられる蛙(本当は食べられないのかも)に笑った声に包まれる時間になるのだった。そう勝新の映画に出てきそうな一見怖い小さくしまった顔も同時に鮮明だ。

好きな日常の緑茶今も一日に何回も飲むが、貴重にされたお茶のあの時間が今も私の心に沁みついている。

蛙の大合唱は風とともに昔の記憶をつれてきた良い響きだった。

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