空をみて

ピアノの練習をする時には、周りに音がでないようにずっと真ん中のペダルを押し込んだままヘッドホンをつけてカタカタやっている。音を変換しているからか、2か月近く(気づきながらそのまま・・)右のペダルの響かせる効果がほぼなくなって音がぶつぎれてしまっている。それだからか現実=我のままと、曲に入りこんでいけるかどうかを行ったり来たりしているような感覚になっていて(若干利くので入っていけている時もある)、注意がそれる事もあってか頭中に昔の練習していた風景 シャムネコのたまちゃんが譜面台の少し向こうから香箱座りでじっと見て聴いていたのが浮かんできた。うまくいかなくて少々荒々しくなっていた時、まずまずの時、ぼそぼそ言いながら鉛筆で書きこんでいたりしていた時、いつも視界には今は亡き当時の一番目の飼い猫がいたのだ。23年間一緒にいたからか猫の形をしたひとのようっだった・・ペダルが利いている時は全く出てこなかったのに何だか不思議。ほかにもふと人との光景が浮かんで来たりして、少し睡眠中のレム状態に夢を見るのと似ている気がする。脳波をとればどこか重なるのかもしれないな・・弾いている間に寝ている?!なのでそれはないか・・

義務的に行動している他の時間はあれやこれやと考えていて、義務じゃなくても行動した方がいいことがあるのは分かっているのに考えていて現状維持状態、まるで回し車のネズミみたいだし(ネズミさんは運動になっているけれど)、カタカタやっている指みたいでどうしようもない。でも義務でも目標に向かってでもない行動にここの所の散歩やちょこっとピアノがあって自身のバランスを保っている。

と、散歩中たまたま聞いた読書コミュニティの中の有名哲学者の解説が良くて、ほぼ音楽中心だったのがこの話しをたまに聞くようになっている。(がやはり散歩中はなるだけぼーっとしたいので聴いていない..)小学生の頃から文章を書く時間になると書き足りなくて放課後も残っていた位あぁだこうだ、時には家での事をそのまま書いてほぼ会話文のこともあったが、時が経つにつれて書くという行為もなくなり頭の中でごちゃごちゃになって整理つかずで心理学の本を開いて見たり、でもこれは心理というよりは脳の問題かもしれないと事例や働きを見てみたりしていた。今回はたまたま哲学者の解いたことを聴いたことで(確か学生の頃単位も修めたはず・・)確かにそうだな、うーん深くて難しいなと感じるけれども少しだけ肯定の思考に転換できそうでもある。

面白いと思ったのは、ニーチェの創造(精神)の過程は3段階に変化する、という思想でその比喩が、1.ラクダ  2.獅子 3.幼子となっている。このラクダは、忍耐や鍛錬を重ねる時期のこと、獅子は自分の役目や目標や意義に目覚める段階、そして幼子が様々な価値観や自己を受け入れてそこから新しい価値や生き方を生み出す=創造する、子供のような心で解き放たれる とのことらしい。(大体は合っていると思いますが詳しい方はたくさんおられる思いますので内容についてご了承下さい)

確かに・・ 年齢にかかわらず精神的成熟した人というのはその通り幼子まで到達しているように思う。とすると自身はラクダの段階なのか?いやもしかしたらそもそもその土台に乗っているのかと疑問となってくるのだが、いずれにせよ楽な道はないということである。

他の哲学者の話しでも学ぶことが多々ある中ふと女性の哲学者は?と思って、帰って検索してみると数は少ないが出てきてほっとする。そしてそうか哲学という思想もあったなと我に返る。またもう一方で「~というものである」という結論が出ていることに安心感を持ちつつ薄々ずっと感じていたことではないかと思ったりした。

算数の問題に5+□=10とあるより、□+□=10になっている方が自由に考えられて楽しく?感じるように哲学でこう言っているからこうなんだというよりは、あぁだこうだでも方向性が合っていればいいんじゃないかと思えてきたのである。(この方向性が違っていたら・・)

ピアノ中に浮かんだことから賢者の話しに思考が動いていく頭のなかは一体どうなっているのか未知、ぽっかり雲が浮かぶ青空を大の字になって見たい気持ちになった。

 

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