ルールや規則と聞いて何が浮かぶだろうか。この言葉の意味の違いはあって公式の場所でのきまりが規則でスポーツにはルールという事らしい。後者は聞き慣れたことばであり又ほかに交通ルール・交通規則と言ったりする場合もある。
これに関連してマスク着用の場面の制限について話し合われているとメディアで報じられている。街頭インタビューでは不安です、取りたくないです、いやスッキリしたいから取りたい、場面に応じて付けます等 様々。私の周りでも今更取りたくないよね、だって化粧が楽だし、花粉症だからつけたままなので関係なし、別にどっちでも、電車では要るんじゃない?等やはり同じような事を言っている。自身の場合はもう少し空気を吸い込みたいので、外では人からそれなりに離れている時にはずらして歩くものの花粉症か気温差で鼻の症状が出るので又元に戻している状態といいつつ、この時期は寒さも緩和される。殆どの人は、服を着るように自然とマスクは鼻の下で収まっていて、あ、現在協議中なのね、という感じである。とテレビで海外の方のマスクなしを見ると慎重な日本を改めて思う。
学校や職場では全体を円滑に事を進めるため今度は規律ということばで規則を守るように意識づける。規律や秩序を保つ為に規則があると言い換えられるのかもしれない。学校では先生が絶対的な立場なので生徒は指示に従って、職場(現在は働き方が多様なのでこれは様々かと・・)では例えば社風をつくり上げるのに仕事上の流れをよくするのに必要となっている。とこれが国が変わればまた違っていて・・ 社会は交通規制するようにある程度きまりがないと混乱してしまうということが分かる。
コロナに関してはこの先どうなるか誰にも分からない所に折り合いをつけることが焦点になるかと思うが、個人的にはこれから卒業式・入学式・入社式を迎える時期は規模にもよるが任意ではだめなのだろうか・・なんて事を思ったりするがこんなことを書いたら無責任な意見とされるのだろうか。特に現在はマスクなしで不意にくしゃみでもしようものなら近くの人はぎょっとするのかもしれないし任意になっても慣れているは、一応は安心だしで付けている人は多いかもしれない。改めると悩ましい。
あと思うこと。「きまり」はとても広い範囲の事で難しいけれど、事柄によって結論を少し早めるきまりがあってもいいのでは・・と。ついでにもう一つ、報道を見てこういうのには罰則としてもう罰金でいいんじゃないかと思う事もある。そして決められるだけに頼らない決めていける社会になるといいなと同時に思う。
「きまり」というものが必要と分かってはいるが「決める」というのは勇気と責任がいることだし、決められる側には覚悟とやはり責任がいって互いの歩み寄りがいるのだろうと思う。ちょっと堅苦しいけれど定規をもつような感覚と変えていける柔軟さがあるといいなと・・