単語を3つ4つ覚えるとか自分でも現実的に進めていけそうな事をよそにいつもの癖?性質なのか色々考えて時間が経つ。答えがないものに気が向いてしまっているような・・もしかして逃避かもしれないし、それだけ余裕があるんだろうと言われても返すことができない。ブログ内容が風の強い今日の雲みたいにポっポっと関連のない形が浮かんでは消えかかっての繰り返しだ。最近書いた冬の変化に関連して内容は「食」にしてみよう。
1年ほど前だったかたまたま「おいしい給食」というドラマを見て自身の子供時代と現在の給食について思ったこと。まずは子供の頃。あの話に出てくる先生みたに(かなりオーバー、心情を表現しているんだろうけれど)給食を楽しみながら(味わいながら)食するのを目の当たりにしていたら、もう少し食べられるようになっていたかなと思ったりする。更に更にさかのぼって園時代なんか一斉に食べだす空気自体に(食べなきゃいけない切羽詰まった感じ)に泣きだす始末で先生が「またoyuk i泣いてます」と迎えに来た母に伝えていたのだった。そう思い返すと成長したんだなと思う。(今では考えられないし当たり前か、、)只おやつの時間は一番に食べ終わっていたりして・・
話しは小学生に戻って、実際自分は薄切り2枚入りの食パンは半分かじってあとは家に帰るや飼っている犬にあげていたり、今日の献立の見本を見に行き八宝菜(イカかタコが入っていた)か・・とげんなり(今はしっかり頂きます!)しては、掃除時間までその入った皿とお見合い状態となり、更に冷めて食べられないという状態に陥って最後は給食室へ「すみません食べられませんでした。」うなだれながら返しに行ったことが鮮明に残っている。ご飯と牛乳の組み合わせもアウトだったのでよく食べる少し小太りの男の子に飲んでもらっていた。のに、キャップだけは貰って他の飲みもののキャップを集めるのに4,5人とじゃんけんをしてゲットする、というのには食べる時間の渋々さとは全く反対の生き生きした子に戻っていた。
現在の給食。大人になってからの味覚や食欲、もっとは給食作りの手間が変わって美味しい食事になっているように感じる。手間に関してはちゃんと配膳する時間から逆算して安全かつ美味しく温かいものを、食器は食育を考え陶器を使う(地域によって違うと思われます)。出汁からしっかり味をとり、衛生状態、アレルギーには細心の注意を払いニトリル手袋など作業上どんどん換えて使う、など。と一方最近のニュースで、経費がかかるのでパンとおかずのみになってしまった・・というような光景を目にした。確かに物価が上がっているしそういう状態になってしまっている子供達がさみしいです、というのを聞くと残念な気持ちになる。ただ物価が上がるとこんな目に合うんだという違う意味で、もしかしたら貴重な体験になっているかもしれない・・、とは傍からの目であってやはりプラスαで元の給食が食べられるといいのになと思う。
ここで又ふと過去の記憶が・・ 海外で小学生の遠足か課外授業でのランチをMac内で学校のカフェテリアで食べるみたいに向き合って座って(そうですが)とっていたのを見たことがあった。当時こういうのもありなんだなと思ったのだった。
昔あまり気が進まなかった(というより苦手だった)給食だが、総じて日本の食事は和洋折衷で美味しくて良いな、時々勝手ながらアメリカ人になりたかったと思ったりするが日本人で良かった(こればかりはどうしようもない事ですが)と、「食」を通じて思うことである。
食べられることは、幸せ、頂きます、なのだ。