なぜこの樹に惹かれていたのが急に分かった。さまよっていた時に足が止まった一番最初の樹。角度をかえて見ると細くなったり、全く違う表情になってなんだか人の一部を表現しているようだし、ある時は進めっといわれているように感じていた。変だと思われるかもしれないが毎度見ているうちに人と会うような感覚になっている。ひとは通り過ぎていく。(一度だけランナーが撮っているのを見たことがある)
小さなテープ「483」が貼られて管理されていて、大きく太い幹から細めの幹?に分かれてその先には枝がたくさん出ていたのだろうと想像する。その幹らしいのが切れられているのを今日数えてみたら5か所ほどあった。なるほど四方に伸びて危険だったか、この場所は樹が多くて陽が入りにくいこともあって病気になってしまったか・・この曲がった幹も陽を求めてあっちかこっちか考えていたのかもしれない。そう、そうやって切られても幹の下の方が削れたようになってもこんな堂々として力強い、とみえるのは見ている自分が感じていることであって、この樹にとってはそうなったそのままの状態にしかすぎないのだけれど、その曲がっている様が自分と重なっているように思えたり、なにか伝えている気がずっとしていた。それは、これでいいという事と、ふんばっていれば自分の幹(軸)はそのまま個性となって強くなるということを気づかせてくれようとしていたからじゃないかと。シンプルなことだけれど自分には難しくて、この樹からまっすぐに教えられた気がしている。
そしていつかその下の方の幹がもっと削れてだめになったとしても、それはしょうがないことだと思えるし、いつかの自分の最期も同じような事ではないかと改めて思えるのである。ひとりの樹、かな。
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